理不尽の積み重ねによるファンタジー

  • 2020.07.28 Tuesday
  • 21:17

JUGEMテーマ:日本史

 

6年前に諏訪を旅行した際に撮った一枚の写真が、HDDの奥底から出てきた。

 

 

「忠臣蔵」で赤穂浪士の一団によって殺された吉良上野介(吉良義央)の”孫にして養子”の吉良義周の墓への案内印。

諏訪・法華寺の境内奥にひっそりと、自然石の小さな墓を、我輩はあえて撮影しなかった。

あまりにも理不尽な生涯を、生まれた時から運命づけられ、ファンタジーにおける嫌われ者の跡取りとしてあらゆる舞台から叩き出され、実父や養母の後を追うように、僅か21歳でこの世を去った。

哀れなのは、3月で積雪ある時期、幕府からの検死を待つ間に遺体が塩漬けにされたのだが、死因が敗血症であったことから腐敗が凄まじく、お香をいくら焚いても死臭が諏訪藩・高島城の南丸屋敷一帯に蔓延してたと記録されている。

取り潰された吉良家譜代の家臣二名だけが、この寺まで遺体を運び(無論、諏訪藩の下男達が実際に運んだのであろうが)、住職に三両の供養費を奉じ、墓を建てた後で、国元の米沢へと帰って行った。

吉良義周は記録では、刀さえ持てないくらいに病弱で、免疫力に乏しく、仮に赤穂浪士による事件がなかったとしても、義理の父にして祖父の吉良義央の後を継いだとしても、そんなに長く生きられなかった。

それでも、死んだ後でもこのような寂しい扱いを受けることもなかったであろう。

おかしな話であるが、葬られている法華寺は、明智光秀とゆかりのある歴史深い仏閣であるが、何故か公式ホームページが存在せず、長野県の観光情報サイトがぞんざいに紹介しているだけである。

江戸時代中期の一大ファンタジー(史実とは全く似ていない)である「忠臣蔵」の終末地は、義周同様に扱いが少し厳しいのではないかと思ってしまう。

 

考えてみたら「赤穂浪士」ほど、個個人の理不尽が笑ってしまうくらいに積み重なってできた事件は、日本史に限らず、世界史において、そうそう見られるものではない。

 

悲劇のヒーローだと誤解されている浅野長矩。

彼に対する同時代の幕閣や大名の評価は最低最悪。

浅野家改易の時には、赤穂藩の城下町は大喜びだった。

もしかしたら「痞」という持病を持った藩主の不手際を、様々な形で事前に防止することで、大石内蔵助は「忠臣」とされたのかもしれない。藩主に恥をかかせるということではなく、藩が潰れないようにするための「忠臣」っぷりか。

江戸まで同行できず、藩の留守を預かったのが運の尽き…松の廊下まで付き添えないことが、あの事件を起こしたというのであれば、大石は哀れなまでに報われない人だった。

 

吉良義央はあのファンタジーの中では悪人とされている。

だが、支配していた三河国幡豆郡吉良庄では、名君として讃えられている。

ただしこれについても疑問が…義央自身、一度も庄へ来たことがなかった。

顔を見せたことがないのに、主君として褒められる理由はどこにあったのか。

「老子道徳経」 第十七章に、こんな一節がある…太上下知有之。

『一番理想的な領主…それは領民が存在を知るだけであって、実際何をしているのか分からない、それが一番の領主である』という内容だ。

義務としての年貢取り立てとかあったのであろうが、過酷とは程遠いもので、あとは領民に全てを任せてた…単に、政治力がなかったからこそ、逆に「レッセフェール」な雰囲気の中で、部下たちに政治をやらせていたのであろう。

吉良家が潰され、新しい領主がよほど過酷だったことから、「名君」として懐かしんだとも解釈できる。

まあ、詳しく調べたことがないから何とも言えない。

 

で、吉良義央は浅野長矩を「イジメてた」というのが、あのファンタジーの中での説明であるが、これは嘘であろう。

ふと思ってることが、一つある。

そしてそれが、一番の理由ではないかと、個人的には強く感じている。

が、長くなるので、ここで割愛したい。

そしてその理由こそが、吉良義央にとっては、理不尽以外のなにものでもなかったのは確かだ。

 

大名・浅野長矩の切腹を見届ける役目は、幕府の大目付。

三人派遣されたが、その内の一人、庄田安利も理不尽な扱いをその後受けた。

大切な行事を潰した浅野の切腹に厳しい態度で臨んだのは、幕閣として当然の事である。

ところが、討ち入り事件後に、赤穂贔屓が天下の中心となったために、幕府からも嫌われてしまい、今で言うところの「窓際」に追いやられた。

人の気持ちの移り変わりは、恐ろしいものだ。

 

討ち入りした後で切腹した浪士の一人、間新六も死ぬまで己の不運を嘆いたかもしれない。

養子に出ていたが、折り合い悪く出奔し浪人に。

その時、討ち入りの計画を知り、参加した…成功すれば、名声を得て、別の藩からの取り立てを期待してた。

が、評決は白裃を左前に着用するというもの。

当時の切腹は、本当に刃を腹に突き立てることはせず、前に屈んだところで首をうたれるというのが主流。

だが、間は介錯を敢て止め、グイっと左わき腹に切っ先を刺し入れた。

様々な解釈はあるだろうが、我輩としては、自分の選択に間違いがあったことへの自嘲としての行為だったと思える。

 

他にも史実限定であるが、色んな人物が、脳内にポンポン出てくる。

そして、彼ら全てが、哀れなまでに、理不尽な流れに突き落とされ、それぞれの場面において貧乏くじを引き、歴史書において、数文字から数ページに渡る様々な動きを果たしていった。

「忠臣蔵」というファンタジーでは、誰もが運命に立ち向かおうとする姿に心打たれるものであるが、その舞台裏を覗き見ると、あまりにも人間臭い、滑稽なまでの哀れを見て取ることができる。

そしてそれを一つ、また一つ発見する度に、「人間は哀れなまでにおかしな存在」だと強く思い至ってしまうのだ。

 

 

 

秋、ちょっと墓参しようかな。

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