不思議な余韻
- 2019.01.06 Sunday
- 23:25
JUGEMテーマ:映画
昨日の日記にチラっと紹介した、映画「ガンジスに還る」。
昨年末、神保町の岩波ホールで偶然ポスターを見かけ、時間があったから観たのだが、名作であった。
と同時に、不思議な余韻が残る映画でもあった。
そう、思い出した。
同じ映画館でかなり以前に、映画「八月の鯨」を観終わった時と同じカタルシスを覚えた。
偶然なのだろうか、二つの映画に共通してたのは、死で終わる人生に悲観するのではなく、シニカルにそのまま受け入れることのできる、人間の大きさを称賛するという点である。
我輩自身、この心臓故に、いつ死んでもおかしくない状況だ。
面白いことに、我輩自身、死ぬということそのものに恐怖や不安は小さい頃からない。
逆に以前日記で、我輩の葬式はこうしてくれと願っていたりする。
ただ、死んだ後の整理が面倒だろうな、それらを片付ける人たちに迷惑をかけるのではないかという、それだけが気になる。
てか、倉庫にあるあの山のようなかつての企画書や企画用の資料、清掃業者じゃないと処分しきれんぞ。
この映画の舞台は、ヴァラナシの畔にある「死を待つ家」。
死期を誘った人たちが、家族にお願いして移り住み、死んだら荼毘にふされ、遺灰をガンジス河に流す場所。
あるドキュメンタリーで、悲観悲愴に紹介されていたが、制作者が欧州の人だったからという、いかがわしさがあった。
我輩は行ったことがないが、覗いた知人曰く、特にどうってことのない、老人ホームのようなところだったそうな。
子供の頃の自分、誰もいない村を彷徨う夢を見て、死期が近いと悟った父親が、家族を説得して、ガンジス河へ行くこととなった。ワーカーホリックな息子は渋々付き添うことになる。
電車やバスではなく、乗り合いタクシーでヴァラナシまで移動するのは意外だった。
狭い路地を潜り抜けるに、リキシャーを使う(インド人同士だから、ぼったくりはないんだな)。
到着すると、父親は施設の管理者の面接を受け、「今は満員だが、今朝、一人亡くなったから」ということで入所が認められる。但し、2週間後には出て行かなければならない(え?と思ったが、それを延長できる方法は映画を観てから。制度的にも、またヒンズー教の思想からも、「なるほど!」と思った)。
家庭問題、ヴァラナシの異常な環境、父子の思い出、同じ施設で暮らす人の死…やがて、その時が。
淡々と生き、淡々と死ぬ。
以前、あるベンチャー企業の経営者は、「俺様は死ぬってこと、考えられないから」とテレビで放言してた。その後、刑務所に放り込まれたが、相変わらずそうだと思い続けているのなら、致命的なまでに想像力のない人間なのだなと思ってしまう。
人は次の瞬間、ほんの目を離した隙に、死神に足元をすくわれる存在でしかない。
「死を待つ家」は、その瞬間において、思うに後片付けがしやすいための施設なのかもしれない。
原題は「Hotel Salvation」、「救済の家」ということか…時々日本語のタイトルは納得いかないものがある。
この場合の「救済」は、死ぬ本人だけに限ったことではない。
そこに住むことで、残される家族と人生を見直し、遺族に後悔させない「救済」もまた存在している。
映画「八月の鯨」では、かつての栄光にしがみ付き、老いと死に恐怖しつつも、いつかまた帰ってくるであろう幸福な日々を思い起こすことでそれを乗り越え、人生を全うする姿が描かれている。
この映画もまた然り。
死に向かって、人生、淡々と歩んでいるかい?
最近投稿数が上がって昔からのぼんのうブログファンとしては嬉しい限りです
体調の問題もあり、毎日の更新が厳しいですが、できるだけ駄文を書き連ねていければと思います。
それにしても、良い映画でした。