ぼんのう

ブルガダ症候群で一級障害者。人生、楽しもうよ♪

学問の使い方

2019.01.02 Wednesday 11:26
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    大学時代から、祖先が学んでいた「水戸学」について、チラチラとつまみ食いして大枠を知ってたつもりでいたが、昨日0時になるまで、暇つぶしに本屋で見つけ買ったこの本を読んでいたら、自らの浅学に恥じてしまった。

    西尾先生でさえも、全てを知ることは一朝一夕ではできないと本の中で書き記されているが、まさにそうだ。

    我輩が「知ってた」と勘違いしてたのは、いうなれば、砂糖菓子の表面にある粒を、ショーケースからただ見ていただけに過ぎなかった、それほどまでに深く、複雑で、儒教や漢文が現代風に言えば「OS」として個人に備わっていなければ、とても学びえるものではなかった。

     

    とはいえ、我輩は何も、「水戸学」を一から学ぼうとは思っていない。

    多くの歴史学者が研究し、現在でも茨城大学を中心に、各種講座が開かれている。

    我輩が謎だと思ってたことは、なぜここまで激しい内ゲバが行われ、多くの人材が消えたのか。

    その一方で、戦前であれば宮内省、現在の宮内庁において、水戸藩の子弟が今でも一定の影響力が何故あるのかということだ。

    それば「水戸学」にあるのか。

    明治天皇が水戸まで行幸された際に、「大日本史」を中心とした水戸藩の勤皇を嘉せられた。

    それを理由とするには、あまりにも単純すぎる。何せ諸藩もまた、勤皇であったからだ。そして、その思想は確かに、「水戸学」に基づいたものであった。全国の秀才達は、一種の聖地として、水戸を訪れ、長期短期問わずに勤皇の意義を叩き込まれた。

     

    この本の中で、悲劇のはじまりは、所謂「後期水戸学」における、藤田幽谷(東湖の父)と立原翠軒との「大日本史」編纂における争いにあった。

    内容については割愛するが、結果として立原は負けた。その後、藩命により、徳川家康の功績について「垂統大記」編纂することとなる。

     

    既に出自から、藤田と立原は対立するように運命づけられていたような思える。

    翠軒は代々水戸藩藩士で学者の家系。父は水戸藩彰考館管庫として仕えていた。

    一方幽谷は、元々古着商藤田屋の次男だった。幼少より学問の才覚があり、翠軒の弟子となり、後に彰考館として藩士になった。

    代々武士か、実力で武士になったか、面白いことにこれが、後の明治維新の写し絵となった。

    よほどの才覚がない限り、支配階級としての武士になれない、そういう制限をなくし、意欲と人並外れた記憶力があれば、誰もが軍人、学者、教師にもなれた時代の移りに、「水戸学」における内部抗争に、それを見て取れる。

     

    敗れた翠軒は、勤皇から距離を取り、徳川幕政を絶対の「善」とする派を形成する環境を作った。

    水戸藩からすると非主流であるが、幕府からしたら喜ばしい存在であった。

    何せ、藩ができてから、水戸藩には「何かあれば幕府ではなく朝廷につく」というドグマが存在していた。

    光圀公と烈公の二人の強烈なキャラクターは、幕府にとっては文字通り、目の上のたんこぶ...しかし、御三家であるから、口出しできない面倒さがあった。

    そのような藩風において、「何かあれば藩ではなく幕府につく」という派閥ができたことは、幕府の意図の通りに水戸藩を動かせるということとなる。幕末の「諸生党」の卵は、こうして生まれた。

     

    「水戸学」は前述の通り、儒教、とりわけ朱子学が軸におかれていた。

    我輩は長らく、「水戸学」と「国学」を同義に考えていたが、そうではなかった。

    「国学」は本居宣長らが、古代中国の思想(「からごころ」)を排除し、古来日本にある「もののあはれ」「やまとごころ」を探るものであるが、「水戸学」は他の考えを徹底的に排除する狭量な朱子学を軸にし(それが後の内ゲバの元ともなった)たことに違いがあり、それが悲劇のはじまりでもあった。

     

    「大日本史」を編纂する理由として、光圀公が、日本の歴史が古代中国とごちゃまぜになってたことへの憤りから...とされてるが、本当かどうかわからない。

    ただ水戸藩の「幕府より朝廷」という開藩の思想から、経済状況を度外視してでも、その編纂を始める運命にあったのは確かだ。

     

    彰考館で発生した、静かな分裂が、のちに多くの人材を失わせることになった。

    明治政府は薩長が支配することになった。

    会津藩は没落したが、子弟達は切歯扼腕し、新しい時代において新しい名声を得ることとなった。

    会津藩の幕末維新は悲劇という言葉しかないが、その一方で、藩全体が「義」を貫くことで一致したことに、後の多くの子弟たちの活躍を見ることができた。

    とりわけ我輩が一に尊敬する柴五郎翁は、会津藩の「義」、日本人の「義」を体現し、日露戦争の勝利のきっかけを作った英雄として崇めている。

    だが、水戸藩にはそれがなかった。

    一致できなかった。

     

    しかし、明治政府において、水戸藩とその子弟は、宮内省にその存在を大きくすることとなる。

    最近になって、ある人物がそれに深くかかわってたことを知る。

    そして調べれば調べるほど、血みどろな状況において、確かに生き残った多くの藩士たちがいるという事実を忘れてはいけない。

    その人物、そしてその人物と一緒に働いてた藩士達(その中に、直系の祖先がいた)は、「水戸学」の主流にいたが、決して出来が良いわけではなかった。

    思想はしっかりと身につけていたが、それをそっくりそのまま使い、先鋭化することは決してしなかった。

    大小を帯びていたが、抜いて斬りあうことをしたくない、ある意味臆病な人たちであった。

    「勤皇」が全てにおいて第一であったが、政治的に現実的な人たちであった。

    敵や味方という概念はない、公平に人付き合いをしてた人たちであった。

    その働きを知られていなかった、あるいは軽く見られてたから、狙われるようなことはしなかった。

     

    学問の使い方を知ってる人たちだった。

    根源の精神は学ぶが、現実社会の動きに従い、現実的に生きる。

    自分の向き不向きを、上から客観的に見ることができる。

    不思議と強い共感を得られる人を知った。そして、生き残った人たちが、見えないところ(宮内省)において奉職した理由も、頷ける。

     

     

     

    少し、この人について、調べてみたい一年である。

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