ぼんのう

ブルガダ症候群で一級障害者。人生、楽しもうよ♪

詠み人知らずの祈りの先にあるもの

2014.12.24 Wednesday 20:52
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    社会の現実をキリスト教的リアリズム(現実主義)に立脚し、悪の根源は”傲慢”、”自己の行為に満足すること”からの自己中心性、自己神格化による”自己の全能性”を鋭く批判し、アメリカで今もなおキリスト教において絶大な影響力を、没後三十数年経った現在でも与え続けている、プロテスタント新正統主義の巨人ラインホルド・ニーバァー博士。
    歴代の大統領は常に同博士の言葉に感化を受け、今では何の冗談かと思われるオバマ大統領のノーベル平和賞受賞の演説において、博士の功績を賞賛した。
    一方でなかなか複雑な人間でもあった。アメリカにおける”社会的多元性”を訴え、KKKに対して激しい攻撃をした一方、ユダヤ人の改宗に積極的だったし(ただナチス政権が樹立した頃、これは誤りだったと改めた。イスラエル建国に積極的で、ユダヤ人の”寛容さ”を賞賛してたが、今の現実をあの世からどう見てるんだろうか)、マーチンルーサーキングJr牧師は博士の神学を模範としてたと述べてたが、博士は公民権運動には極めて消極的だった。

    良くも悪くも、アメリカのキリスト教とは何かを問われれば、必ず筆頭に挙げられる顔であった。



    日本におけるクリスチャンの数は、人口の1%未満だと言われている。
    新興宗教とかの信者数を合算すれば、実際の人口を遥かに凌駕するが、逆算すればおそらく1%どころか、一毛いるかどうかも怪しいものだ。
    我輩もカトリックを信奉していたが、日本におけるカトリック教会のあまりの売国奴っぷりに呆れかえり、少なくとも日本国内にいる限り、日本における教会から距離を置くようにしている。
    心情では、信じてる。
    が説教の中で、日本人をゴキブリだと評して、特定アジアに対して一生奴隷でいなければならないとほざいたあの神父に対して、靴を投げつければよかったと未だに後悔している。

    まあ、そんなクリスチャンであってもなくても、ラインホルド・ニーバァー博士の名前を知らないことのほうが日本人なら当然のことだ。
    カトリックならいざ知らず、プロテスタントで知っているとすれば、神学学校で学んだ牧師くらいなものであろう。



    だが、一方で、この祈りなら、どっかで聴いたことがあるのではなかろうか?



    God grant me the serenity
    to accept the things I cannot change;
    courage to change the things I can;
    and wisdom to know the difference.

    神よ変えることのできるものについて、
    それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
    変えることのできないものについては、
    それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
    そして、変えることのできるものと、
    変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
     (大木英夫博士訳)


    聴いたことない…いや、聴いたかな?
    ちょっと厨二病を患ってた頃に、齧ったような?

    和訳がなんかガチャガチャで、個人的に好きではないが、大木博士のこの訳が日本では比較的知られているので、転載した。

    原題は”Serenity Prayer”。
    和訳では”ニーバァーの祈り”として知られているが、直訳すれば”平静の祈り”か。
    博士が書いた詩とされるため、”ニーバァーの祈り”とされているが、実際のところ、博士が作ったものであるのか、曖昧なところがある。
    博士が1951年に雑誌の中で発表したことで、広く知られるようになったが、実際のところ、詠み人知らずでの”祈り”あるいは詩として、更に数100年前から口伝で伝承されたものである可能性が高い。
    また、この祈りは、雑誌で博士が伝えたことによって広まったのではなく、アルコール依存症や神経症を治す団体が採用したことによって、誰もが一度は聴いたことがある祈りとなった。

    ”ニーバァーの祈り”として、1951年に発表された祈りは、この4行に新たな詩を加えたことによって、キリスト教的というより、禅における”日々是好日”の境地に至らせる変貌をもたらした。


    God, give us grace to accept with serenity
    the things that cannot be changed,
    Courage to change the things which should be changed,
    and the Wisdom to distinguish the one from the other.

    Living one day at a time,
    Enjoying one moment at a time,
    Accepting hardship as a pathway to peace,
    Taking, as Jesus did, This sinful world as it is,
    Not as I would have it,
    Trusting that You will make all things right,
    If I surrender to Your will,
    So that I may be reasonably happy in this life,
    And supremely happy with You forever in the next.

    Amen.



    神よ、平安の下に力をお与えください。
    変えられないものを受け入れる寛容を
    変えるべきものを変える勇気を
    そしてそれらを見分ける知恵をお与えください。

    一日一日を歩み生き、
    生の一瞬一瞬を喜び、
    あらゆる生における困難は平和へ至る道であることを、
    そう、この厳しい世界を、貧しきイエスが歩んだように
    私を含めた罪深い世界を、そのまま受け入れ、
    しかしその道の苦さを味わうことなく、全てをあるべき姿にあるように、
    そしてそのあるべき姿にこの身を委ねることができるのならば、
    この人生を終わらせるその瞬間、決して私は不幸ではなかったことを悟り、
    天国でとこしえに平安に生きられますように。

    アーメン
      (拙訳)



    変えられないものを受け入れる寛容さ、変えるべきものを変える勇気、そしてそれらを見分ける知恵は、確かにキリスト教的リアリズムに立脚した博士の、詠み人知らずによるクレド(使徒信条)と同じである。
    信仰の目的は、本来、何であったのか。
    我輩自身の個人的な考えでは、”死”が始まりである。
    ”死”という未知なる恐怖に対して、そして遺された生者達の慰めとして、信仰が存在する。
    それが”神話”を土台に、”死”が説明され、”死”を意識することで、どのような”生”を歩むべきかを示される。

    前半4行は詠み人知らずのクレドである。
    残り9行は、博士のクレドを実践した我々の姿である。
    クレドを実践することで、”死”の瞬間、何を得ることができるのだろうか。






    メリークリスマス。
     
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