ぼんのう

ブルガダ症候群で一級障害者。人生、楽しもうよ♪

カトリックと禅についての拙考

2010.04.06 Tuesday 17:01
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    昨年、解雇通知を受けた直後から、
    気持ちに何かがある時、自然と足を向ける教会が
    四谷にある。

    吉祥寺にも立派な教会があるのだが、駅から遠く、
    また、吉祥寺に立ち寄る機会がめっきり少なくなった。
    逆に、就職活動やらで、四谷駅に降りる回数が増えた。
    面接や打ち合わせ等の予定より早めに到着したら、
    コーヒーショップで時間を潰すのが普通であるが、
    駅周辺にそのような店は見当たらず、駅ビル内のショップは
    小洒落たのが中心なので、節約をしたい身分としては入りたくはない。

    だからなのか自然と、聖イグナチオ教会に入り、祈る。

    どの時間に入っても、静かに祈る人々の姿がある。

    古来よりあるタイプではなく、円形をベースにした
    現代建築で、古い聖イグナチオ教会を知っている自分としては、
    最初の頃は違和感を抱いたものである。
    だが、慣れてくれば、この簡素だが、居丈高ではない、
    柔らかい光注ぐ教会も、なかなかどうして、日本人の感性にあった設計だと、感心する。

    礼をし、椅子に座る。
    しばし黙想する。
    一人の弱い人間として、静かに神と向かい合うこの祈り方は、我輩は好きだ。
    ロザリオの祈りを勧める司祭や信者もいるが、全てを忘れて、沈黙の中に座するのが好きだ。

    カトリックはミサという動的な祈りと共に、
    黙想という静的な祈りが共存する。
    神を讃美し、キリストの聖体を拝領し、言葉を通して信仰を再確認するミサは、それ自体が一つの神の王国を具現化したものである。
    黙想し、神を思い起こし、キリストの奇跡に思いをゆだね、忘我の中に、かすかな光を見出す祈りは、自分は何者であるのかを鋭く問う静かだが激しい讃美の形だ。
    ここに禅と同じものを見出した。
    だからカトリックを信仰しつつも、禅門に居士として入ることに、不自然さを感じることは全くなかった。
    禅寺に入った日に、住職が本尊を指指して

    「我々がこの本尊を拝むのは、超自然的な力を求めてのことではない」

    「我々が本尊を拝むのは、禅の大先輩への挨拶に過ぎない」

    この言葉に、我輩の気持ちは固まった。

    禅は全てを放り出すこと、そして放り出した先に、自分が何であるのか知る事。
    カトリックの信仰もまた、全てを放り出すこと、そして放り出した先にあるものが、何であるのか知る事。
    飛ぶ鳥は無用なのか?
    地に咲く花は無用なのか?
    それを思い起こしたいものだ。



    さて、時間がきた。



    今、ここにいる我輩は、無用の無用。無用の極致にあるもの。
    今、ここにいる我輩は、無用の極致にあるが故に、これから何かで満たすことができるもの。
    無用は用あるものにして、用あるものは無用なるもの。

    自分が無用な存在だと徹底的に判れば、そこから道は開ける。
    無用だからこそ、用として満たされる希望があるからだ。
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