徒然と…

  • 2021.12.03 Friday
  • 22:12

JUGEMテーマ:日記・一般

 

久々にホーンテッドマンションへ。

片付けが終わる気配が全くないのだが、テレワークを行う作業スペース周辺を確保した。

いままでは国道にあるカフェまで雪風を出して、コーヒー四杯お代わりしながら仕事をやってたりしてたけど、今度からはこういう細かいところでの出費は無くなるわけだ。

てか、周辺をあっちこっち覗くと、若い世代が流れ着いてできた意識高い系の店とかが増え…って、これは以前、日記に書いたっけ。

いや、最初は我輩のような無骨者からしたら縁のない世界だと思ってたりしたが、先日、バリスタの世界大会での受賞者が開いた店を偶然発見し、そこでのブレンドコーヒーが美味くてね…粉を買って自分で淹れたりしている。これだけで十分に安く、旨いコーヒーにありつけるものだ。

出費は少しずつ、抑えていくように、財布が軽くならないことを喜ぶように、生活を変えていかなければならないな。

 

それにしても、iPadがこの環境で大活躍。

古いキーボードが出てきて、捨てるにもったないな…とここに持ってきて、そのまま埃かぶるままにしてたが、作業スペースが整理できたということで、もしかして繋がるのかなあ…ちょうど良い感じに変換アダプターがあるから…

繋がったよ。

パチパチ打てるよ。

あ、これは普通に嬉しいねえ。

そうそう、本業の会社で使ってたPC台(私物)も同様の理由で運び入れてたんだけど、これもちょうど良い高さで肩がこらない。

今度は使わなくなったモニターでも持ってこようかな。

次第に環境も整ってきた。

 

そうそう、環境だが、ホーンテッドマンションと言うけど、周囲はそれなりの住宅街。

昔は氏素性怪しい連中ばかりが住んでたそうだが、最近、工業団地が近くにできたことと、テレワークで都心から離れた家族、あと引退した老夫婦とかが移住し始めて、結構賑やかになってきてる。

んで、光回線とかもほとんど普及している。

工事もすぐにできるそうだ。

チラシが何枚も入ってきてるが、ふむ…テレビもついでに…いやあまり観ないからなあ。

 

 

 

駅前の食堂に初めて入ってみた。ここで言うカツ丼とは、玉子でとじるものではなく、ソースかつようなものだったんだな。

 

 

信じられる?

  • 2020.11.30 Monday
  • 22:05

JUGEMテーマ:日記・一般

 

明日で師走だってこと。

 

そろそろ年賀状の準備を…と思ってたけど、海外旅行でのちょっとした出来事をいつもプリントするというのが今年ナッシングという事態…久々に漫画を描いて誤魔化すか。

 

 

大掃除もやらなければな。

ホーンテッドマンションの掃除は遅々として進まないが、この狭い普段の住まいくらいは、数週間かけて少しずつならできるというものだ。

あ、でもトイレについては、どっかの代行業者に依頼するべきだろうかな。

 

HDDが怪しくなってるということを日記に書いたが、ふと思うことがあって、HDDをチェックする有名なフリーソフトで検査したら…

 

 

え?どゆこと?バッファローさん、アンタらのソフトでチェックしたら「そろそろ新しいの買え」って出てきたのだが、なんでこっちは正常って出てるんや?

似非関西弁でツッコミを入れたら負けかな?

 

 

 

結局、何事もなく年を越すということになるのかな。

 

肩書をまた持つ

  • 2020.10.23 Friday
  • 22:55

JUGEMテーマ:仕事のこと

 

一昨日、今いる会社とは違う、今までのキャリアとは全く関係のない、そんな仕事をしているというのをブツクサ呟いた。

 

 

そして、それに関しての名刺が届いた。

びっくりするくらいの高級紙。

まさかの縦書き。

そして何年振りだろ、肩書をまた持つというのは。

 

ものすごく重い、重く感じてしまう。

だが、提案する様々なことについて、真摯に聞き入れ、良いと判断していただいたものを積極的に導入してくれる。

それを実行するに際して、我輩が責任をもつ必要がある、そのための肩書だ。

重いはずだが、なんと心地よいことか。

十年、いや下手すれば二十年ぶりに、「聴く耳」がいらっしゃることの幸せというものだ。

そして、形作る際に、自分が率先して動くことができる高揚感は、なにものにも代えがたいものだ。

ゲーム作りではないが、それと似たものがある。

軽い狭心症こそ起こるが、この気持ちよさを邪魔するものではない。

 

IoTの情報、人工知能の活用、初めて触れる分野におけるマーケティング、好奇心と物事の裏を観察することから得られる情報、祐筆の末裔としてホイホイ出てくる文言…。

不安はあるが、それを超えるだけの勇気が何故か湧いてくる。

 

 

 

どれ、また働きますか。

なんでコレ、買わなかったんだろ

  • 2020.08.08 Saturday
  • 18:59

JUGEMテーマ:定額給付金

 

何年か前、住んでいる団地の公社が、何をトチ狂ったのか、

「黒く建物を塗れば、ナウでヤングになり、若い人も入居してくんじゃね?うは!俺様頭いい!」

てな感じかどうかわからんが、ヒビだらけの外壁を黒ペンキで塗り潰して、

その為に夏になると熱がガンガンこもり、夜中に住んでる部屋へと放熱されるという地獄絵図が展開されて…

 

あ、これってもしかして、柔らかい地上げ?

入居者にさっさと出ていけという嫌がらせ?

なら納得できるが、都内で駐車場付き5万円もしない物件はそうそうないんだよ馬鹿野郎…

 

まあ、そんな感じで、あのまま冷夏で過ごしてくれたらうれしかったのだが、梅雨開けて一週間、毎年恒例のナチュラルサウナと化しているわけだ。

 

南北の窓を開けて、風通しを良くしようとしても、肝心の風が吹いてこない状況。

ちなみに、蚊取リマットを忘れて窓を開けたのだが、刺されることはなかった…逆に気温が酷すぎると、蚊が死ぬって本当の話なんだな。

ベランダに打ち水して、風の流れを作ろうとしたが、おかしな湿気が入り込んでしまい、死ぬかと思った。

台湾や東南アジア、サウジアラビアの暑さは平気なのに、東京湾一帯を塞いでいる馬鹿マンションの所為で、肺が焼け付くおかしな東京の現状が出来上がっているんだよなあ…。

 

武漢肺炎以前に、東京五輪、無理だろ…。

 

 

 

まあ、そんな状況で、有り余っている定額給付金を少し軽くした。

 

 

なんでだろ…我輩、かき氷って自宅ではなく、外で食べるモノという思い込みがあるんだよ。

甘いものは苦手だが、体内から冷やして暑さを乗り切るかき氷は、国内海外問わず、見かければ必ず注文してしまう。

以前、鹿児島まで旅行した際に、宿泊してたホテルの真ん前が天文館むじゃきで、毎日必ず暖簾をくぐり、スペシャル白熊をかきこんだ。

ペナンを訪れたい際、岬の外れにある半分壊れかけたオープンエアのコピティアムで、かき氷ABCを夢中で胃に納めた。シンガポールにもあるチェンドルは絶品だ。

倒産したインデックスは三軒茶屋のキャロットタワーにあり、在籍してたのだが、夏場、中階にある区営の喫茶店でいつも宇治金時を頼んでた。店員のおばちゃん達、元気かな。

 

まあ、そんなだから、家でわざわざかき氷を作るという発想がなぜかなかった。

が、もう駄目だ。

アマゾンで調べて、電源コードで接続し、ふわふわ系のモノができるヤツ…って、上にあげたヤツしかなかった。

 

ぽc…あ、まてまて…機械があっても、氷にかけるものがないだろ。

台所を観ると、胃薬代わり(?)に飲んでるカルピスがあるが、これじゃなくてやはり、色付きのものがいいよな。

明治屋のお約束シロップを買うというのもあるけど、あれ、色で誤魔化しているだけで味は同じというタネ知ってるんだよ。

てか、けっこう量があるんだな…秋になって余したら馬鹿らしい。

水に割って飲む?

それって、今は亡き、大阪ジャンジャン横丁入口にある、「身体に悪いジュース」を売ってたスタンドのあの飲み物と化するから嫌だ。

 

 

少し高いが、これにしよう。

石垣島のパイナップルだし、量も程よいし、水で割ってもよさそうだ。

 

 

 

で、さっき届いてので、夕食後に使用。

お、けっこう簡単だな、ちょっと大き目だけど。

カップの中に半分氷を入れて、ミキサー部を押し込んで、ボタンを押す。

 

 

ジュゲムさん…画像編集ツール、バグってるよ…。

 

おお、ふわふわには程遠いが、十分にかき氷。

で、パイナップルのシロップをかけて食べる。

 

 

 

なんとかこの猛暑、乗り切れそうだ。

ブログ日記再開

  • 2020.07.20 Monday
  • 15:44

JUGEMテーマ:日記・一般

 

うお...半年以上ぶりだな、このブログも。

気付いてる方もいらっしゃると思うが、人生折り返しをとっくに過ぎてしまい、そろそろ色んなことについての「棚卸」が必要だな…と、こんなサイトを立ち上げた。

 

障害者であること、旅行のやり方、近日には倉庫から出てきた企画書の紹介など、いろんなことをここでやれたらいいかな…と思ってたのだが、それ以前に、困ったことがある。

 

テレワークだ。

テレワークを続けて3カ月以上経過した。

 

個人的に大賛成の働き方であるが、おかしな感じに時間を持て余してしまう。

じゃあ、新しいサイトを増やせば...と思ったのであるが、家の中で他にやることが色々と発生してしまうことに気づいた。

料理、掃除、洗濯...死ぬまで独身であることが確定した我輩だから、これらは苦に感じられない。

が、これらは元々週末に行ってたものなのだ。

それを毎日やっているものだから、余った時間がこちらに潰されてしまう。

 

考えてみたら、平時での日々は、外に依存した生活が展開されていた。

 

朝食は台湾客家茶か、外食。

昼食は無論外食。

夕食についてはできるだけ自炊してたが、疲れている場合はどうしても外食となってしまってた。

これらが全て、家の中で毎日行わなければならなくなった。

 

洗濯も土日、よほどの暴風雨でもない限り、一気に洗濯機を回してた。

しかし今は、乾き方の速さから、少ない量でタンクを回してさっさと日干し。

このおかげか、下着などに嫌な臭いが残らなくなった。

だからついつい、数日おきにベランダが賑やかになる。

 

土日も掃除とかしてたが、今は気づいたらモップで埃を取り、掃除機をかける。

本棚の中で、もう読まなくなった書籍を片っ端から電子化。

使わなくなった様々なガジェットやデバイス(これが妙に多い…)も、問答無用で燃えないゴミ化。

ほんと、これらだけで、部屋の中がすっきりして、気分が良い。

 

これらを繰り返してたら、色々と何か書こうという時間が無くなってしまう。

寝る前に…という考えもあるが、夜10時までにパソコンを閉じ(緊急の仕事がある場合は11時まで)、寝るまで台湾華語の勉強に1〜2時間費やしている。

新しい言語…と言ったら微妙に違うな。毎年数回、台湾を訪れているから。

ただこれについて、思うことがあって、この半年間、ずっとこの習慣を続けている。

時々(高額だが)、Skypeでの台湾華語会話にも参加…だがこれについても、夜10時までに済ませている。

モニターで目が疲れるとかブルーライトで睡眠状態が悪くなるというのがあるが、新しいことを学ぶと、熟睡できる。

座りっぱなしのテレワークは運動不足に陥り、寝入りが厳しく、起きるのにも苦労する。

新しいことを学ぶことへの興奮、だが我輩はそれ以上に健康のために勉強をしている。

 

 

 

こういうことで色々と思うことがあって、ブログ日記を再開しよう。まあ、相変わらずの内容だけどね。

書くことで慰めを

  • 2017.07.10 Monday
  • 13:57

JUGEMテーマ:日記・一般

 

他人のプライベートのどこがおもしろいのかとは思うが、歌舞伎役者の妻が癌で早死にしたニュースが少し落ち着いてきたようだ。

問題は、その歌舞伎役者がブログやSNSなどで心情を吐露し、なんとか気持ちを落ち着かせようとしていることに対して、酷いことを述べる連中の多さだ。

悪し様に無責任な非難を繰り返す輩は、世の中における理不尽さから逃避し続けてきた、実生活においても、精神面においても、現実を見ることのできない引きこもりであると断言できよう。

アクセスを稼げば、運営会社から金がもらえるというが、大御所の役者にとってそれは微々たる金にしかならない。まあ、その金額からしたら、働かない人間にとっては大金ではあろう。つまりはその時点で、悪口を浴びせているのは、汗して働いて金を稼ぐ経験が実際にないと共に、世間での金の感覚がなんであるのか理解できていない未熟さがあるということだ。

 

このブログを続けて20年以上。

ゲーム業界で働くという強烈なストレスを和らげることと、少しばかりのプロモーションに繋げられたら(逆効果になったりもしたが)ということで、日記の感覚で始めた。

毎日の更新は難しかったのだが、ある日、大学時代の知人(今は絶交した。友人であっても、一定の礼儀というものを知らない人間と付き合うことは時間と精神の無駄遣いだ)から、「毎日書かないで『日記』って言えるのか、バーカ」と言われてから、どんなに疲れていようとも、一行でもいいからと、毎日書き続けてきた。

 

これが結構、精神衛生上良かった。

 

前述の通り、思ってることを書くことは、一種の”排泄”行為であるのだ。

心の中で思っていることのモヤモヤを吐き出すのには、いろんな方法がある。

一昔前までなら、電話で好き放題言うというものであるが、これはかけられる方にとってはたまったものじゃない。

さきに挙げた知人も、大学時代、ほぼ毎晩我輩に電話をかけてきては自分勝手なことを喚き散らかして、我輩の時間を一方的に奪っていった。あいつだけではない、他にもこういうのが多数いたが、我輩自身、そういう手合いにつかまりやすいオーラでもあるというのだろうか。

今であればSNSなどがある。

ツィッターで思うことをべらべらと書き連ねること、Facebookで30分おき(!)に自分の存在を懸命にアピールすること(実際にいる…)なぞ、他人がどう思うかは別として、精神衛生には良いといえるし、相手になる方も電話とは違い、意味のないこと、理解できないこと、時間がないということについて、相手にする必要もない。

 

”かまってちゃん”とか、最近だと”嘘松”という言葉もあるが、そういうのは無視しても良いし、ツッコミを入れておもちゃにするというのも実は、それをやってる人間にとってはうれしいことであったりする。ネガティブでもなんでも、この種の書き込みをする人にとって、自分が”忘れられた”存在になることが一番怖いことなのだ。

だから何でもよいから”書く”ことで、自分はまだ”存在”していることで慰めを得ているのだ。好悪は別として、だ。

 

ただ一方で、何でも書いて良いわけだが、そこに責任が伴うということを理解していない場合が多い。

犯罪やテロを示唆したり、反社会的な言動やそれ自体を肯定し続けるのであれば、後にそれは大きなツケとして返ってくるということは、若い世代よりも、我輩よりはるかに年上の連中に多く見られるのは、とても不思議なことだ。

もしかして、学生運動の論理が、ネットでも通用していると思っているのだろうか。

60年代と違って、”残る”ということの意味を理解していないのは確かだが。

 

色んな場面で、多く書き連ねている人は、正直な話、”病んで”いるのだ。

その苦しみを少しでも”吐き出させる”間は、そっとしておいたほうが良い場合もある。

無論、同じ苦しみを味わった辛い思い出がある場合、決して一人ではないということで応援することは大変素晴らしいことだ。

何も感じることがないのであれば、そっとしておくことが、最低限のモラルだ。

失ったことへの苦しみを、匿名であざ笑う人間を徹底的に軽蔑することが大事だ。

 

 

 

毎日、日記を更新しない我輩は、随分とストレスのない日々を送ってるってことになるのかな?

白髪のタイミング

  • 2017.05.15 Monday
  • 12:58

JUGEMテーマ:日記・一般

JUGEMテーマ:健康

 

どの単行本だったか覚えていないが、漫画家の桜玉吉翁があるエッセイ漫画の中で、自分の陰毛に白髪が生えて、老いに少し懊悩しながらそれを引っこ抜くというシーンがあった。

頃合いからすると、もう20年弱前のことなのだろうか。

何気なく読み、記憶の片隅に置いてたのだが、昨年あたりにそれがポンと浮かび上がった。

しかも我輩の場合、それは陰毛ではなく、鼻毛という…。

 

今いる会社は埃や排気ガスが多く、鼻毛がよく伸びる。

エチケットとしてはみ出ないように(しかし剃らないように。剃ると必ず急性副鼻腔炎になるので)小さいハサミで整ているのだが、その日、鏡の中で、妙に映える白い一本筋を確認した。

どうしても気になるので、毛抜きでエイヤ!…と抜くと、見事なまでの白い鼻毛だったのだ。

で、前述の漫画を思い出したというわけだ・。・

 

体質的に我輩はどうやら、髪の毛に限らず、体毛のアチコチ白くなるようだ。

その後、腋毛にも白髪が生えてきた。

桜翁と同じように陰毛にも生えてきた。

胸毛にも白髪が出てくるようになったが、まさか脛毛にまでも生えてくるとは思いもしなかった。

特に気にしないで、そのままにしている点は、翁とは違う。ただ、老いを認めるというのではなく、単に白っぽいものが入ってたほうが、我ながらかっこいいのでは?…という勝手な思い込みがあるのだが。

 

白髪だけではない。

眉毛が異様に伸びている高齢者を時々見かけるが、我輩もそんな中の一人になりそうだ。

20代の頃は右の眉毛から一本だけ長いのが伸びてたが、今では左右から10本くらいが太くにょーんと伸びている。

床屋に入る時は、切らないでそのままにして…とお願いすると、変な客だなあ…という表情を見ることができる。

実はちょっと、”すだれ眉”に憧れていたりする。

 

頭髪の一本一本、細くなっているが、禿る様子がない。

白髪は増えているのはさっき書いた通りだが、気持ち、増えているような気がする。

また相変わらず、伸びるのが早い。エロエロなのも相変わらずであるが、まあそれとは関係ないだろう。

毎日帰宅後、きちんと洗髪し、身ぎれいにしているのだが、恰好のためというより、健康のための最低限の心構えというものだ。

そのおまけくらいなものだろう。

 

アラフィフの頃合いに入り、人生の身支度を日々行ってたりすることが楽しくなってる。

独り身で死ぬことが決定しているから、周囲に迷惑をかけないように常日頃考えなければならない。

その一方で、大型特殊車両免許を取ったり、ひそかに別の資格を取ろうとしたりして、年末年始を海外(台湾かマレーシア)か石垣島で、あるいは定年退職後に石垣島移住を考えたりして、人生をそれなりに楽しもうとしている。三線も下手であるが弾いてて楽しい。Wacomの液タブは返品したが(これについては後日詳細をw)、代わりに価格半額以下の液タブを買い、その分かりやすい使い方に、下手なりの同人漫画を描き始めてる。コミケまで間に合うかな?

 

身体的な老いの前に、心臓が弱っていることでの体調不良は否めないが、この年齢になると、過去のことなぞどうでもよくなってきた。その一方で、将来は何をしようかということを考え、それを実行に移し、実現させることにとてつもない楽しさを感じるようになった。

 

どっかのブログで、40歳代の女性が、自分の人生のつまらなさや将来が見えてこないことについて絶望し、泣き崩れてるのが話題になって、ネットニュースとかに取り上げられてた。たくさんの同情する声があがってたが、我輩からしたら、「?」しか出てこない。

誰だって年取るもんだよ。

良い学校を出て、良い就職をし、出世とかしたところで、いずれそれらは意味がなくなるものだ。

それらにとらわれ、過去の自分と比較するから泣きわめくんだよ。

「あの頃の私は」って、それは過去の自分であって、今の自分とは全く関係のない幻だ。

それともこれか?

「こんなに努力したのに、自分には何もない!」

 

 

何もないなら、今からその何もない自分に、何かを加えろ!

 

 

別に資格とか取れってことじゃない。

以前からやってみたかったことがあるか?

ならばこのブログを閉じて、そのやってみたかったことを検索してみろ。

「馬に乗ってみたかった」…けっこう!あちらこちらに初心者向けの学校がある。費用?数カ月贅沢を控えろ、あっという間に即金でできるぞ。

「お茶とかやってみたい」…別に看板が掲げられてる師匠とかに入門する必要はない。市民講座とかで毎月開催されている。料金も微々たるものだ。

「旅行がしたい」…それも素晴らしい「何か」だ!いきなり世界一周とかも良い。え?怖い?ならば隣の県の観光名所を調べて行くのも立派な旅行だ。

 

プライドを持つのは正しいことだが、そのプライドが本当の意味で正しいものでなければ、みっともないことになる。

現実にそぐわないプライドは単なる勘違いに過ぎず、社会にありのままの自分を合わせられないから過去にしがみつき、現実を否定し、逃避する。社会に合わせたとしても、過去の自分を美化しすぎるあまり、自分は何もないまま老いて死ぬことに恐怖し、泣き叫ぶ。

 

馬鹿馬鹿しい。

人生是、全て無用也。

いなくなったところで、現実はきちんと動くのだ。

畢竟、自分は「無用」だと知ることが重要だ。

 

「無用」だとしたら、なんで生きてるのかって?

「無用」だと分かれば、そこから何かを詰めていけば良いだけだ。

 

 

 

にしても、腹毛にも白髪とは。w

きちんと年齢をとること

  • 2015.06.03 Wednesday
  • 21:56
JUGEMテーマ:日記・一般


40代独身男の悲壮感は異常


このスレを立てたのって、結婚したことのないアラフィフ独身女性じゃねーのか?・・・と思ってしまった。
「独身は寂しいやん」・・・この一文が、既に男性の感情ではない。

まあでも自らを思い返し、見回してみると、独身既婚問わず、40〜50代にかけて”悲愴”に見えるというのはあるかもしれん(ちなみに”悲壮”は誉め言葉だぞ?悲劇的ながらも勇敢な・・・という意味だからね。”悲愴”は悲痛とかと同義で、ひたすら悲惨な状況を意味している)。

サラリーマンに絞れば、そこにあるのは思い通りにならない人生。
家族の生活とローンを抱えての人生。
だが家族とのコミュニケーションが途絶え、粗大ゴミ扱いされる人生。
かつての同期との競争で、勝ち負けがはっきりした人生。
仮に勝ち組だとしても、役員にならなければ定年でポイ捨てされる人生。
負け組だとしたら、若い連中に相手にされない人生。
「40代になってから読む本」とかの意識高い系の本を読むと、できないことばかりが羅列されていて愕然とする人生。
独身だと、ホモだと間違えられる人生。
役職とかについていないと、まったく相手にもされない人生。



でもね、見直してみると、自分自身の責任でもあるんだよな。

サラリーマンになるということは、その会社から給料を貰っている分だけ働くという契約を結んだことになる。
であれば、契約以上の仕事をする必要はないということだ。
不況になってリストラの対象者になりやすいというのであれば、会社の外で自分のキャリアを作れば良いのだ。
そこには肩書きとか勝ち組とか負け組とかは存在しない。
大体、役職って、ほんとーーーーに他社とかでは、まったく役に立たない。
参考にはなるが、会社の仕組みが違っていれば、通用しない。
どっかのCEOをやって、別の会社のCEOになったというニュースはたくさんあるが、口先八丁で株主を騙すテクニックがあるにすぎない。まあ、考えてみたら、それもまた重要なビジネススキルであるがw
会社はあくまでもライフラインでしかない。
会社の外で自分のキャリアを見つけ、作り、強くしなければ、悲愴な状況になるわな。

結婚するということは、妻となる女性と一緒に生活をするという約束をしたことになる。
お金のみで換算するということは、一緒に生活をするということの一部に過ぎない。
結婚は自らの権利を半分にし、義務を三倍に増やすことを意味する。そこには家族とのコミュニケーションが多く含まれている。
意見が全く合致しないということもあるが、それでも会話をしなければならない義務を有する。
その義務を放棄し続けるのであれば、悲愴な容貌になるわな。
独身であるというのもまあ、誤解されるというリスクを常に覚悟する必要がある。
これは我輩として、仕方がないものとしてあきらめている。
心臓病であるということを言い訳にはしていない。プチ貧乏の海外旅行好きで、オタであるということを死ぬまで続けたいということで、女性からの理解は一切得られないと踏んでいるから、ゲイでもホモでもどうぞ誤解しまくってくれ。
悲愴?悲愴に見られないな、なぜか知らんが。
人生、楽しんでいるからかな?w



にしても・・・同世代の諸氏を見ると、ああ、悲愴以前に、相手にされなくなるなー・・・という言動がやたら目立つん。
”きちんと年齢をとっていない”諸氏が多く、このスレ主が述べた「悲愴」は要するに、見てて「イタタタタ」・・・なのではなかろうか、と思える。
ネットスラングに良い表現がある:

 ババア(ジジイ)無理すんな  (まあ、この場合は20歳代以降でゴニョニョニョ・・・)

自分は若い!・・・と思うのは、個人の内に秘めるのであれば救いはある。
だが若い世代の空間の中に入り込もうとすると、もう「悲愴」しかない。
まだ負けられない、仕事なんか任せられない、俺様がいなければ会社はやっていけない!・・・という勘違いの類となると(これがとても多いんだよね)、「悲愴」よりも「滑稽」さが増してしまう。



自分の年齢という現実に向き合うことができない人間こそ、本当の意味で「悲愴」なのだ。
未婚既婚とかではない。
それぞれの事情で義務を負うか負わないかが存在するものであり、そこには幸福不幸の基準は存在しない。
収入やらステータスやらに、「年齢相応」の枕詞は意味をなさない。
20代で数億円の年収の人に、「年齢相応」だと言えるのか。
50代で文字通り、永平寺で文字通り出家している僧を、「年齢相応」だと批難することができるか。



重要なのは、きちんと年齢をとる、それだけだ。



年齢を重ねれば、体力は失われる。
その現実を無視して働けば当然身体を壊す。
それで失業とかすれば、「悲愴」だわな。
であれば、失われた体力分だけ、誰かに(たいてい若手に、だが)やらせてみる。
ここで重要なのは、できるできないかを判断するのではなく、やらせた相手が自分なりのやりかたでできるかどうかを見ることだ。
職人でもあるまいし、自分のやり方を押し付けるのは、発展の可能性の芽を摘むことだ。
その人にとってやりやすい方法で、仕事をさせて、結果を出させることに評価の目を注ぐべきだ。

自分の身体に自信をもってはならない。
人生折り返し地点を過ぎたら、主治医を作っておくべきだ。
この場合、一回り自分より若い先生であることが重要だ・・・自分より年上だったら、先に死んじゃうし。w
わずかな変調も見逃してはならない、自分の身体に対して、臆病であることが求められる。
糖尿病、肝臓や腎臓に関する病気は、病魔が発現しにくいという点で一番恐ろしい。

若手と話をするのは良いことだが、若手の集団に入り込むのは避けるべきだ。
求められていないのに、口出すする人間になってはならない。
誰かが困った時に、無言で助けること、そして無事に済ませたあとは静かにその場を立ち去ることだ。
他人の評価は一切関わりないということを、認識しなければならない。
外部の声は移ろいやすく、中年以降になればそれらの声は自らの人生に一切関係しないものに気づけば、おめでとう、あなたはきちんと年齢をとっている証拠だ。
無理して若い世代に媚びると、惨めだぜ?加藤茶なんか、良い例だわな。w

きちんと年齢をとっている人は、仏頂面ではない。
誰に対しても微笑を絶やさない。
自分より上の人に対しても、自分より下の人に対しても同じである。
言葉も態度も、だ。
上に媚び、下に怒鳴る人間には絶対ならない、いや、なれない。
何故なら、無礼傲慢な態度をとれば、結局自分がそのような無礼傲慢な嵐に見舞われることを知ってるからだ。

きちんと年齢を重ねている人は、「因果応報」の理を髄の中に溶かし込んでいるからだ。

ああ、それと、たとえ自分としては幸福な人生だと思っていても、恰好とかに気を付けないと、スレ主のような馬鹿が勘違いしちゃうからね。
背広を着ない職にあっても、一年に一回は着てみよう。
もし、主観的にも着こなせていないと感じるならば、あなたは見た目に「悲愴」な人間になっている。
「馬子にも衣装」ではないが、社会的な正装は、誰もがある一定以上のステータスに押し上げる偽装のようなものだ。
ネクタイがよれてる、クリーニング屋に出していない臭いワイシャツ、皺だらけの背広、踵がすりへった靴…それらを平気で着ている段階で、「悲愴」そのものだ。
きちんと年齢を重ねていれば、そのレッドラインは身についているものだ。
「人を容貌から判断するな」と言う人もいるが、「容貌はその人の性格を表す」と返すことができる。
きちんと年齢をとっていれば、そのことを経験で自然と知る事ができるものだ。

死ぬという自覚も持ち始めるようにしたほうが正しい。
自分が死んだらどうなるかということもあるが、死んだ場合、遺された周囲が面倒を行さないようにするにはどうしたら良いのかを、きちんと整理したほうが良い。
これって結構重要なことだ。
何せ、自分自身の人生を振り返る作業と同じことだからな。

そして、可能な限り、自分がやりたいと思うことをやってみよう。
仕事とかでどうしてもそれをやれる時間がないのであれば、時間を作ってしまうのだ。
会社はあなたがいなくとも、勝手に進むものだ。
我輩も2週間、マレーシア〜タイまで遊びに行ったが、まったく問題なかった。
世間はあなたがいなくとも、勝手に動いていることに気付けば、きちんと年齢をとっているということを意味している。



少し人生、見直そうよ。きちんと順々に老いてやがて死ぬことが、幸福な人生を気持ちよく過ごす秘訣だぜ?

詠み人知らずの祈りの先にあるもの

  • 2014.12.24 Wednesday
  • 20:52
社会の現実をキリスト教的リアリズム(現実主義)に立脚し、悪の根源は”傲慢”、”自己の行為に満足すること”からの自己中心性、自己神格化による”自己の全能性”を鋭く批判し、アメリカで今もなおキリスト教において絶大な影響力を、没後三十数年経った現在でも与え続けている、プロテスタント新正統主義の巨人ラインホルド・ニーバァー博士。
歴代の大統領は常に同博士の言葉に感化を受け、今では何の冗談かと思われるオバマ大統領のノーベル平和賞受賞の演説において、博士の功績を賞賛した。
一方でなかなか複雑な人間でもあった。アメリカにおける”社会的多元性”を訴え、KKKに対して激しい攻撃をした一方、ユダヤ人の改宗に積極的だったし(ただナチス政権が樹立した頃、これは誤りだったと改めた。イスラエル建国に積極的で、ユダヤ人の”寛容さ”を賞賛してたが、今の現実をあの世からどう見てるんだろうか)、マーチンルーサーキングJr牧師は博士の神学を模範としてたと述べてたが、博士は公民権運動には極めて消極的だった。

良くも悪くも、アメリカのキリスト教とは何かを問われれば、必ず筆頭に挙げられる顔であった。



日本におけるクリスチャンの数は、人口の1%未満だと言われている。
新興宗教とかの信者数を合算すれば、実際の人口を遥かに凌駕するが、逆算すればおそらく1%どころか、一毛いるかどうかも怪しいものだ。
我輩もカトリックを信奉していたが、日本におけるカトリック教会のあまりの売国奴っぷりに呆れかえり、少なくとも日本国内にいる限り、日本における教会から距離を置くようにしている。
心情では、信じてる。
が説教の中で、日本人をゴキブリだと評して、特定アジアに対して一生奴隷でいなければならないとほざいたあの神父に対して、靴を投げつければよかったと未だに後悔している。

まあ、そんなクリスチャンであってもなくても、ラインホルド・ニーバァー博士の名前を知らないことのほうが日本人なら当然のことだ。
カトリックならいざ知らず、プロテスタントで知っているとすれば、神学学校で学んだ牧師くらいなものであろう。



だが、一方で、この祈りなら、どっかで聴いたことがあるのではなかろうか?



God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.

神よ変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
 (大木英夫博士訳)


聴いたことない…いや、聴いたかな?
ちょっと厨二病を患ってた頃に、齧ったような?

和訳がなんかガチャガチャで、個人的に好きではないが、大木博士のこの訳が日本では比較的知られているので、転載した。

原題は”Serenity Prayer”。
和訳では”ニーバァーの祈り”として知られているが、直訳すれば”平静の祈り”か。
博士が書いた詩とされるため、”ニーバァーの祈り”とされているが、実際のところ、博士が作ったものであるのか、曖昧なところがある。
博士が1951年に雑誌の中で発表したことで、広く知られるようになったが、実際のところ、詠み人知らずでの”祈り”あるいは詩として、更に数100年前から口伝で伝承されたものである可能性が高い。
また、この祈りは、雑誌で博士が伝えたことによって広まったのではなく、アルコール依存症や神経症を治す団体が採用したことによって、誰もが一度は聴いたことがある祈りとなった。

”ニーバァーの祈り”として、1951年に発表された祈りは、この4行に新たな詩を加えたことによって、キリスト教的というより、禅における”日々是好日”の境地に至らせる変貌をもたらした。


God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things which should be changed,
and the Wisdom to distinguish the one from the other.

Living one day at a time,
Enjoying one moment at a time,
Accepting hardship as a pathway to peace,
Taking, as Jesus did, This sinful world as it is,
Not as I would have it,
Trusting that You will make all things right,
If I surrender to Your will,
So that I may be reasonably happy in this life,
And supremely happy with You forever in the next.

Amen.



神よ、平安の下に力をお与えください。
変えられないものを受け入れる寛容を
変えるべきものを変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵をお与えください。

一日一日を歩み生き、
生の一瞬一瞬を喜び、
あらゆる生における困難は平和へ至る道であることを、
そう、この厳しい世界を、貧しきイエスが歩んだように
私を含めた罪深い世界を、そのまま受け入れ、
しかしその道の苦さを味わうことなく、全てをあるべき姿にあるように、
そしてそのあるべき姿にこの身を委ねることができるのならば、
この人生を終わらせるその瞬間、決して私は不幸ではなかったことを悟り、
天国でとこしえに平安に生きられますように。

アーメン
  (拙訳)



変えられないものを受け入れる寛容さ、変えるべきものを変える勇気、そしてそれらを見分ける知恵は、確かにキリスト教的リアリズムに立脚した博士の、詠み人知らずによるクレド(使徒信条)と同じである。
信仰の目的は、本来、何であったのか。
我輩自身の個人的な考えでは、”死”が始まりである。
”死”という未知なる恐怖に対して、そして遺された生者達の慰めとして、信仰が存在する。
それが”神話”を土台に、”死”が説明され、”死”を意識することで、どのような”生”を歩むべきかを示される。

前半4行は詠み人知らずのクレドである。
残り9行は、博士のクレドを実践した我々の姿である。
クレドを実践することで、”死”の瞬間、何を得ることができるのだろうか。






メリークリスマス。
 

改めて自分の葬式について考える

  • 2014.10.11 Saturday
  • 23:09
数か月前、腎盂炎で倒れた母が完全復活して、怪気炎をあちこちで吐きまくっている。
短大の同窓会でもケンカ売りまくったそうだが、話を聞く限り、いつぞや新宿の喫茶店で延々と他人の悪口を言い合う二人の女性とか、ファミレスでのヤンママのDQN発言とか、そういうことをかつての同級生たちがざわめこうとしたら、ブチ切れたようで、やはり血なんだなあ…と。

「時間ができたら、スペイン一周してくる!」

と言い出しているし、こないだのドイツ一周では不足だったのか。



まあそれはともかく、台風が来ると言うこともあって、久々に実家の今で母とくつろいでいると、テレビで墓とか葬式とかの話題が流れてた。

「ああ、あんたもう結婚するつもりないようだから、これを考える必要ないよ」

ああ、さいですか。

「その代わり、色々とあたしの葬儀とかについて、頭の中に留めてくれ、こないだ倒れた時も、死を意識したからね」

うむ、我輩も死ぬことについて、毎日意識しているから。
日記にも以前、こういう感じで葬式してくれって書いてるから…って、誰に頼めばいいんだろうか。w

で、色々と聴いた。
意外だったのは、神道ではなく、仏教で葬式してくれってこと。
水戸藩の墓には入りたくないのは、まあ、仕方がないか。
ある寺について、永代供養とか、そういうのを調べてくれと?ああ、それは容易いよ?
檀家の寺とかないから、その点、気楽だわな。
ああ、であれば、生前戒名ってて手もあるな。あれなら数万円で済むし。

覚悟して聞くということはない。
誰でも生きていれば、死ぬ時が来る。
素直にその時をいただければ良いだけだ。

にしても、我輩自身の葬儀についても、少し見直しをしたほうがいいな。

何かあった時、そのように動いてくれるように手配するのは、どっかの葬儀会社?NPO法人?毎年、障害者サポートとして一回来る民生委員?市役所?友人知人?うーむ…そういう点では、将来、老人ホームも選択肢だな、全部お願いできるから。

神道葬を調べてみたけど、手続きが面倒だな、おい…50日間もかかるの?
残った連中に面倒なこと、させたくねえなあ。
あと、「諡」ってのがあるんだねえ…曹洞宗の門を叩いてた頃は、「無用居士」と自ら号したが、諡となるとまた違うんだな。
まあ、これはおいおい考えよう。

空中葬で骨をばらまくというのもあるが、こっちも永代で世話になるという手もあるな…。
寺とかの永代供養は腐るほど(?)あるが、神道となるとあまりないんだな。
ああ、そだ。
小旅行の際に、ついでにあっちこっちのその手の霊園を見て回ればいいか。

こないだの伊勢巡礼の時に、海岸のほうをもうちょっと見ればよかったかな。



でもね、結局一番してほしいのはね、遺産とか全部売り払って、高級ウィスキーを大量に買い、どっかの高台にみんな上って、朝まで飲み明かし、日の出とともに、我輩の人生そのものである「The Parting Glass」…



これを大音量で流して、天に向かって乾杯してくれたら、  最高の人生の終わり方だ。

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

Feel Free To Follow

flag counter

free counters

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM